06.  |
「ホントに、ごめん」
気にしていないと言ったのに、戒はまた謝った。
はぁ、と溜め息をついて、あたしは何も言わずに冷蔵庫へと物を入れていく。
「…ごめん」
戒の声に、ほんの少し苛立ちの響きが混ざった。
「…気にしてないって、言ったでしょ」
パタンと冷蔵庫の扉を閉めて、一度リビングへと歩く。持って来たバッグの中から、エプロンを出すために。
ソファーの上にバッグが置かれているのを見つけて、戒の隣を通り過ぎる。
バッグへと手を伸ばしたとき、突然肩を掴まれて引き戻された。
「気にしてないんだったら、なんで俺の顔見ないんだよ」
隠そうとしていない苛立ちが、掴まれた肩から小さな痛みとなって伝わってくる。
眉間にしわを寄せてあたしを睨む戒を、黙って見上げた。
あたしが何も言わないでいると、、戒の顔に今度は自嘲するような表情が浮かんだ。
「そんなに俺が嫌いなわけ?」
その言葉と共に、肩を掴む手に力が入る。
肩の痛みが増して、あたしは顔をしかめた。
「…戒」
「ただいまー!景ちゃん、帰ってる?」
言葉を続けようとしたとき、玄関から声が響いた。
その弾んだ声に、戒がハッとしたように肩から手を離した。
離された手は、行き場を失ったように宙でさまよっている。
「おかえり、お父さん」
玄関に向かって、何事もなかったように返事をした。
そしてさまよう戒の手を、あたしは両手で包み込んで、一度ぎゅっと握りしめた。
気にしていないと、伝わればいいと思いながら。
すぐに手を離すと、あたしは玄関に向かった。
「帰ってくるのがもっと遅いと思って、まだご飯作り始めてなかったんだよ」
リビングに入ってきた親父に、景が苦笑した。
「ああ、いいよ。気にしないで」
親父の声が弾んでいるのは、景が帰ってきているからだ。
再婚して娘ができたのが、すごく嬉しいらしい。
「あのね、景ちゃん。ちょっと頼みがあるんだ」
親父はソファーに沈み込んでいる俺のそばに立って、ネクタイを緩めながら言った。
「頼み?」
景と同じく、俺も不思議に思って親父を見上げる。
「明日からね、お母さんと旅行に行こうと思うんだ」
だから、と親父が苦笑しながら俺に視線を移した。
「旅行中、戒の面倒を見てほしいんだよ。こいつ、全く料理ができないからねぇ」
「いつの間にそんなの決めたんだよ!」
ソファーから起き上がって、抗議する。
「そんな話、全然聞いてない」
「そりゃそうだ。言ってないんだから」
言ってないんだから、じゃない。さっさと言えよ、そういうことは!
景に視線を走らせると、驚いた顔をしている。
「ほら、景ちゃんは料理ができるだろ?」
景ちゃんがいてくれれば安心だから、なんて言って笑った。
安心も何も、あんたが帰ってくるまで、かなり険悪だったんだけど。
景が承諾するわけがない。
そもそも、今日だってここに帰ってくるのを嫌がってたんだから。
「俺なら一人で大丈夫だよ。コンビニとかで適当に食べるもの買うから」
「景ちゃん、頼んでいいか?」
俺の言葉を完全に無視して、景にだけ話しかけている。
景の意見を尊重するってわけか…。どうせ断るに決まってるんだ。
「…いいよ」
予想外の景の返事に驚いて、親父から景に視線を向けた。
よかった、とホッとしたように言って、親父はさっさと2階に上がっていった。
「いいのかよ、親父の言うことなんかきいて」
野菜を切る音を聞きながら、景に声をかけた。
「……嫌いな人のために、ご飯なんか作らないわよ」
少し間を置いてから返ってきた言葉に、ちょっと驚いた。
親父が帰ってくる直前に言った、俺の言葉への返事も含まれているんだろう。
たったそれだけの言葉で、機嫌を直してしまう俺は。
やはり、現金なんだろうか。
まだ半分夢の中にいるような俺の耳に、人の話し声が届いた。
夢なのか現実なのか判断できないような頭で、よく聞き取れない声を聞く。
ただ最後に、「行ってらっしゃい」と言う景の声だけが、妙にはっきりと頭に残った。
両親を送り出して、キッチンに戻る。
コーヒーを入れるためのお湯を沸かしながら、天井へと視線を向けた。
戒はまだ、起きてこない。
今日から旅行に行くと聞かされたときは、本当に驚いた。戒も知らなかったみたいだし。
旅行は4日間。その間、この家にはあたしと戒の2人だけ。
それを考えると、溜め息が出てしまう。
今までこんなに長い間、2人きりになることなんてなかったんだから。
でも、断れなかった。
お父さんのことだから、あたしが拒否すれば「仕方ないな」で終わらせたんだろうけど。
あの時のあたしには、断れなかった。
お父さんが帰ってくる直前の、戒の顔が忘れられない。
戒に掴まれた肩の痛みを、まだ覚えている。
―――そんなに俺が嫌いなわけ?
そう言った戒の声も、耳について離れない。
そうじゃない。
嫌いなわけじゃない。
ただ…。
はぁ、と溜め息をついた時、ピーッという音が響いた。お湯が沸いたという知らせに、思考を中断させられる。
そのけたたましい音に顔をしかめて、コンロの火を消した。
どうか、何事もなく過ごせますように。
挽いたコーヒー豆にお湯を注いで、立ち上る湯気をぼんやりと眺めた。
目を覚ますと、時計の針は9時過ぎを指していた。
ぼんやりとした頭で、起き上がる。
階下が静かなことに少し首をかしげて、両親は今日から旅行なのだと思い出した。
半分寝ているような意識の中で、景の声だけが聞こえたんだ。
「いってらっしゃい」という言葉だけが、耳に残っている。
部屋から出てゆっくりと階段を下りていくと、かすかにコーヒーの香がした。
顔を洗ったあとリビングに入ってみても、誰もいなくて。
あれ、と思ってキッチンに視線を移すと同時に、声が聞こえた。
「おはよう」
キッチンのカウンター越しに、景が俺を見ていた。
「…おはよう」
「コーヒー、飲むでしょ?」
すぐに俺から目を逸らして、ヤカンに手を伸ばす。
飲むと返事をして、その姿を眺めた。
コーヒーを入れる様子は、昨日のことなど忘れたようにいつもどおりだった。
「…アパートに戻ってもいいから」
コーヒーを受け取って、一口飲んでから切り出した。
ミルクを入れたコーヒーの、茶色い鏡が俺の顔を映している。景の方を見ることはできなかった。
「……昨日、あれだけ帰って来いって言ってたじゃない」
「親がいないんだから…景がいる必要、なくなっただろ」
もともと、親に会わせるために迎えに行ったんだから。
俺と一緒にいてもらうためじゃ…、ない。
「戒は…、あたしに帰ってほしいわけ?」
「そうじゃない」
顔を上げると、景と視線がぶつかった。
心のどこかでは、景にいてほしいと思う自分がいて。俺の方が先に目をそらしてしまう。
湯気のように自分の気持ちが揺れて、上手く掴むことができない。
結局、分からない気持ちを、コーヒーと一緒に飲み込んだ。
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