2.思いがけない暖かさに                            

  電車に乗ったりんに軽く手を振ってから、うるさい音を背に階段を上る。
  こんなふうに、自分の家とは反対方向に向かう電車を見送るようになってから、そろそろ4ヶ月。
  自分の乗る電車が来ても乗ろうとしない俺に、りんは何度も「先に帰っていいよ」と言う。
  でも、その言葉を笑顔ではぐらかして。りんを見送ってからホームを移動する。
  自分で、自分の行動に苦笑してしまうけれど。少しでも話をしていたくて、一緒にいたくて。そう思うから、素
  直に行動してるだけ。

  階段を上りながら、重くて使いにくいだけの学校指定鞄を開ける。中からウォークマンを取り出すのも、いつ
  もと同じ。
  ホームに下りると、タイミングよく、電車が入ってくるというアナウンス。
  ぼーっと線路の枕木を眺めていたけれど、すぐに電車で見えなくなった。
  大学生らしい男女2人と入れ違いに電車に乗り込んで、そのままドアのそばに立つ。
  楽しげに話をしながら歩いていく2人の後姿を眺めて、小さく溜め息をついた。
  俺とりんは、あの2人とは違ってるんだ。
  流れていく景色を眺めながら、りんとの会話を思い出す。
  明日の放課後俺は呼び出しを受けていて、一緒に帰れないからとりんに言った。
  時々こんなふうに呼び出されるんだ。俺はその度に、りんには正直に話しておくんだけど。
  ちょっとはやきもちでも焼いてくれるかな、とか。そんなことも考えたりはするけど、りんの様子はいつもと変
  わらない。
  今日もそう。
  毎日一緒に帰らなくても、って言われちゃって。
  その言葉で、りんにとって俺は偽者の彼氏なんだなって自覚した。
  もともと、この関係を提案したのは俺なんだから。仕方ないんだけどさ…。



  屋上への階段を上りながら、今日俺を呼び出した人の名前を思い浮かべた。
  いくら考えても、その名前に覚えはない。
  名前は知らなくても、顔は知っている人だろうか…。
  階段を上りきって、ドアの前で立ち止まる。小さく溜め息をついてから、そっとドアノブを回した。

  来てくれてありがとう、と俺を呼び出した3年の先輩は、泣き笑いに近い顔をしてつぶやいた。
  その後姿がドアの奥へと消えてから、はぁ、と大きく息を吐く。
  無意識のうちに、体に力が入っていたらしい。
  すぐに帰る気もしなくて、とりあえずドアの上にある狭い空間に視線を移した。
  壁に固定された鉄のはしごを上って、ゴロンと横になる。
  ゆっくり動く雲に視線を向けたとき、ドアの開く音が聞こえた。
  屋上に来る必要性は限られているから、たぶん俺と同じ理由で来たんだろうな…。
  やっぱりすぐに帰るべきだったかと少し後悔するけれど、もう遅い。
  仕方なく、寝転んだまま雲を眺めた。

  「あの…話って何ですか?」
  しばらく沈黙が続いて、やっと聞こえてきた声に驚いた。
  りんだ。もうとっくに帰ってると思ってたのに。
  りんを呼び出したやつの顔を見てやりたい気持ちをなんとか抑えて、空を睨みつけた。
  イライラして、しかたない。

  ドアが閉まる音がして、そっと起き上がった。
  下に視線を移すと、りんの後ろ姿が見える。先に帰ったのがりんじゃなくてよかった。
  風に揺れているりんの髪を眺めていると、4ヶ月前のことを思い出す。
  あの時も、今と同じ状況だった。俺はここから、りんの後姿を見てたんだ。
  4ヶ月前の取引で、俺は他のヤツよりもりんに近づけたと思う。
  でも時々、りんとの距離がとてつもなく遠く感じることもあるんだ…。
  イラついていたことを悟られないように注意して、声をかけた。
  「なんだ、りんも“お呼び出し”?」
  驚いた顔で振り向いたりんに、笑顔を向ける。
  「聞いてたの?」
  俺を確認して、睨むように目を細めるのを、苦笑で受け流す。
  隣に来るように手招きをすると、りんは素直に上ってきた。


  しばらく景色を眺めながら、他愛のないことを話して。話が一段楽したところで時間を確認する。
  「さてと。結局今日も一緒に帰るんだな」
  そろそろ帰ろう、と促して立ち上がる。
  名残惜しそうな表情でもう一度景色を眺めるりんに、手を差し出した。
  その手にりんの手が重なると、そっと握り締めて引き寄せる。
  「なんだか、すごく嬉しそうな顔ね?悠」
  立ち上がったあと俺の顔を見て、りんは不思議そうに言う。
  「そうか?まぁ、彼女と一緒に帰れるからね」

  握っていたりんの手は、思っていたよりもずっと細くて。そして、暖かかった。