19. 繋ぎ直す心  |
ケーキを食べ終えたあと、いったん由美と別れた。
あたしはマンションへは戻らずに、真っ直ぐに実家へと向かう。
兄と姉に会って、話をしなければいけないから。
あたしの気持ちと、どうしたいかを。全部。
電話を入れておいたから、最寄り駅まで姉が迎えに来てくれた。
いつもなら、いろいろ話しかけてくる蝶子姉さんは、家に着くまでずっと黙っていた。
怒っているとか、そういうんじゃなくて。運転している横顔は、どこか寂しそうに見えた。
居間のソファーに座って、お手伝いさんが持ってきてくれた紅茶を飲む。
兄さんはまだ会社から家に向かっている途中。姉さんは、家に着いてすぐに電話が入った。
だから今この部屋には、あたし一人しかいない。
ソファーにもたれて、自分のマンションよりも高い天井を眺めた。
火曜日。
この家に戻って来てほしいと、姉さんはあたしに言った。
父が体調を崩した事を機に、会社や香月家の全てを兄さんが引き継ぐことになったらしい。
でも兄さんが会社を継ぐに当たって、やっぱり何かと不安な要素があるから。
それを補うために春乃崎との関係を深めておきたかったんだそうだ。
でも、あたしは…。
小さくため息をついたとき、居間のドアが開く音がした。
振り向いた先には、ネクタイを緩めながら歩く兄と、ドアを閉めている姉。
あたしと目が合うと、景士兄さんはニヤッと笑った。
「どうした?」
ここに来た理由なんて分かっているような表情と口調で言う。
あたしの正面のソファーに二人が座った。
「…あの、ね」
いざ話し始めようとすると、どう言えばいいか分からなくなってしまう。
一度口をつぐんで、ふうと息を吐き出した。
「あたし、この家には戻らないから」
小さい頃から、兄さんも姉さんもあたしをかわいがってくれた。
父親代わりをしてくれたって言ってもいいくらい、兄さんはあたしを大切にしてくれた。
本当は、兄さんの為にこの家に戻ってくるべきなんだと思う。
でも…。
「あたしは、亜聡くんよりも好きな人がいるから」
わがままを言ってごめんなさい、と頭を下げた。
「りんがそうしたいなら、それでいいよ」
兄さんがそう言ってくれたとき、そっと顔を上げた。
いつもどおりにニヤッと笑う兄と、ちょっと困ったような優しい笑顔の姉。
あたしはなんだか泣きそうになった。
りんと蝶子が居間から出て行くと、景士は携帯で電話をかけた。
しばらく呼び出し音が鳴り続けたあと、その音が途切れる。
「どうも、香月です」
顔の見えない電話の相手に、笑顔を浮かべる。
「なーんかね、俺と大野先輩の計画が無意味になっちゃいそうですよ。…どうします?」
窓にもたれかかって、景士はクスクスと笑った。
由美と待ち合わせて、悠のマンションに着いたのが7時過ぎ。
ピンポーンと音が鳴り、少ししてスピーカーから悠の返事が聞こえてくる。
「津ノ田です。りんのことで話があるんだけど」
あたしはカメラの死角に入って、由美だけがカメラに映るようにする。
学校の帰りにあたしが頼んだのは、由美が悠のマンションに“一人で”来たフリをしてもらうこと。
悠に避けられてるのかもしれないと思って、そう頼んだ。
早瀬くんも由美も、悠はあたしを避けてないって言ってたけど。
やっぱり、あたしは不安だったから。
ドアの横にあるチャイムを鳴らして、由美がインターフォンに向かって声をかけた。
悠の「今開ける」という返事が聞こえると、由美はあたしに笑顔を向ける。
「がんばってね」
小さい声でそう言って、手を振りながら階段を駆け下りていった。
カタカタと遠ざかっていく足音を聞きながら、ゆっくりと開かれたドアに視線を戻す。
少しオレンジがかった光が溢れて、出てきた悠があたしを見た。
一瞬にして、その表情が驚きへと変わる。
由美じゃなくて、あたし一人が立っていたんだから。
「…悠」
小さく息を吸い込んで、名前を呼んだ瞬間に。
あたしは、腕を掴まれて中に引き込まれた。
背後でバタンとドアが閉まる音がして、視界が悠のTシャツの色で染まる。
気付くと、あたしは悠の腕の中にいて。
痛いくらいに抱きしめられていた。
「りん…」
あたしの名前が囁かれるたびに、ドクンと心臓が脈打った。
目の奥が痛くなって、目を閉じる。
じわっと涙がにじむのを感じながら、そっと悠の背に腕を回した。
悠だ…。やっと、会えた。
「悠…はる、か…」
嗚咽のせいで、うまく声が出ない。
それでも声を押し出すように、名前を呼んだ。繰り返し、繰り返し。
背中に回した手で、シャツを掴んで。
すがりつくように、悠の存在を確かめるように、シャツに顔をうずめた。
あたしを抱きしめる腕も、すぐそばにある温もりも。
全部が嬉しくて、涙が止まらない。
「りん」
もう一度名前を囁かれて、そっと顔を上げる。
いつもの悠の笑顔がそこにあって。ますます涙が溢れ出した。
もう、この笑顔を見ることができなくなるのかと。
もう、悠があたしを見てくれることはないんじゃないかと。
そう考えると、すごく怖かった。
どれだけ自分が悠を好きなのか、痛感させられた。
だから…、あたしに向けてくれる、この笑顔を、もっとよく見たいのに。
止まらない涙で視界が歪む。
「昨日は、ごめん」
嗚咽をこらえながら、首を横に振る。
「りんのこと傷つけて、泣かせて、ごめん」
「悠が…謝る必要、ないよ」
のどの震えが邪魔をするけれど、悠の言葉を否定する。
「俺、りんに会いたくてさ。これから、りんのマンションに行こうと思ってた」
学校で会えなかったから、と悠は苦笑する。
悠の手があたしの頬に添えられて、涙をぬぐうように指が動いた。
「来てくれて、ありがとう」
悠の手に自分の手を重ねて、あたしも笑う。
会いに来ようとしてくれたことが、嬉しかった。
不安でも、悠に会いに来てよかった。
「話がしたくて。でも、会ってくれなかったらって、不安だった」
悠も、あたしと同じだったんだね。
「付き合ってるフリは、もう…終わりだけど…」
そこでいったん言葉を切って、悠は口を閉じた。
悠に会えて嬉しい反面、その続きを聞くのは、少し怖い。
でも、悠の目を見て次の言葉を待つ。
「ずっと前から、りんが好きだったんだ。だから今度は…」
おさまっていた涙が、また溢れ出した。
「今度はフリなんかじゃなくて、本当に付き合ってください」
あたしはただ、うなずくことしかできなくて。
そんなあたしを、悠はまた、抱きしめてくれた。
「りんが、好きだよ」
だけど、あたしも悠に気持ちを伝えなくちゃいけないから。
大きく息を吸い込んで、悠の目を見る。
「あたしも、悠が好きです」
そっと顔を近づけあって、ゆっくりと目を閉じる。
2度目のキスは、涙の味がした。
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