18. すれ違い                                   

  なんで人が何かを決心したときに限って、こうなるんだ…。

  早瀬は酒のせいか、今朝は寝起きが悪くて。追い出すのに、だいぶ苦労した。
  それでも、いつもどおりの電車に乗ろうと家を出たんだけど。
  ホームに着くと、普段とは違って人の数が多い。
  どうしたんだと思って耳を澄ますと、駅員の「人身事故…」という声が。
  そのおかげで、1時間目の授業には出られなかった。
  2時間目は美術だったせいで、教室に荷物を置いてすぐに特別棟へ移動。
  一般校舎の隣りに建てられた特別棟には、美術やら音楽やらの特別教室がある。
  時間割の変更で、3時間目もそのまま美術を続行。
  3時間目と4時間目の間の休み時間は、特別棟からの移動時間に費やされ。
  やっと昼休みに入って、りんのクラスに直行した。
  今日に限って、携帯を家に忘れて来た自分にため息が出る。りんにメールもできない。

  「…津ノ田、さん?」
  教室の中をざっと見回しても、りんはいなかった。
  窓際の席に、津ノ田が一人で座っているのが見える。
  昨日の剣幕を思い出して、躊躇したけれど、りんに会うことが先決と思い直した。
  「……どうかしたの」
  俺の声に顔を上げた彼女は、いつもより低い声でそう言った。
  いつもの笑顔は、跡形もなく消え去っている。
  「りん、どこ行ったか知ってる?」
  より真剣に聞こえるように、できるだけ慎重に声を出した。
  「さぁ」
  予想通り、彼女の返事はそっけない。
  「あたしが素直に言うと思ってるの?」
  逆に聞き返してきた彼女は、ついさっきとは打って変わって、にっこりと笑った。
  絶対零度の微笑みってのは、こういう感じなのかという感想が生まれる。
  口元や頬は笑みの形でも、目だけは笑っていない。
  わかった、と苦笑して、でも、と付け加える。
  「俺が来たってことだけは、伝えといてほしいな」
  「…りんをこれ以上傷つけないって保障するなら」
  「もう二度と、そんなことしない」
  即答すると、津ノ田は苦笑して「伝えとくよ。特別ね」とうなずいた。
  「真剣みたいだから、もう一つ特別」
  歩き出したところで、背後から津ノ田の声が聞こえた。
  振り向くと、今度は意地の悪そうな表情が浮かんでいる。
  「もう一つ?」
  「そう。……りんね、男の子に会いに行ったのよ」
  それ以上言うことはないとでも言うように、さっさと手に持った雑誌に視線を落とした。

  教室を出て、廊下を見渡してもりんの姿はなかった。
  今聞いた津ノ田の言葉が、頭の中で繰り返される。
  男って誰だよ…。
  俺のことだったらいいんだけどね。でも、まさか…な。

  大野くんが教室を出て行く姿を、雑誌を見るフリをして眺めていた。
  その背中が見えなくなってから、ペロッと舌を出して、心の中で謝った。
  最後の“もう一つ特別”って言うのは、ちょっと意地悪だったかなとは思うけど。
  りんを泣かしたんだから、罰ってことで我慢してもらおう。
  もちろん、りんが会いに行ったのは大野くんだし。他の誰かに呼ばれたわけじゃない。
  その大野くんとすれ違いになったんだろうな、りんは。
  でもなぁ…。
  「男の子に会いに」って言ったときの、大野くんの顔。
  全然、自分のことだとは思わなかったみたいね。そういうところは鈍感よね、あの人。
  まぁ、りんも鈍感なところがあるから。似たもの同士、ってやつなのかな。

  「…ただいま」
  お昼休みに入って、すぐに悠のクラスに行ったのに、肝心の悠はいなかった。
  一応学食まで行ってきたけど、そこにもいない。見落としていなければ、だけど。
  「大野くんの捕獲失敗?」
  由美の言葉に、苦笑する。
  捕獲って…。
  「いなかった」
  机に突っ伏すように沈み込んだあたしを見て、由美が苦笑する。
  メールしても、悠からの返信はないし。
  「由美…やっぱり、あたし避けられてるのかな」
  休み時間ごとに悠のクラスに行っても、姿はない。
  避けられているのかと、すごく不安になる。
  「それはないよ。さっき、大野くん来てたもん。ここに」
  「……」
  来てくれて、嬉しいのが半分。何の話だったのかと、不安が半分。
  それでも。今、悠の顔が見たい。


  「香月さーん」
  HRのあと、そんな声が教室に響いた。
  あたしだけじゃなく、教室に残っていた人たちの視線も集めているのは茶髪の男子生徒。
  着崩した制服のポケットに両手を突っ込んで、あたしに近づいてくる。
  「早瀬くん」
  椅子に座っているあたしは、彼を見上げて呟いた。
  悠が言っていたように、あたしの記憶と違って髪が茶色い。
  同じ学年でもあまり見かけないから、あたしの記憶の中では金髪だったんだけど。
  「どうかしたの?」
  来たのが悠じゃないことに、内心の落胆を隠して笑顔を作る。
  早瀬くんは隣の席に横座りして、足を組んだ。
  「ごめんね、悠じゃなくて」
  あたしの考えを見透かしたように、ニヤッと笑った。
  「…そんなこと、ないよ」
  苦笑するしかない。
  「もうひとつ、ごめんって感じの話があるんだわ」
  きっと、それを言いにここに来たんだろう。
  「悠、今日は一緒に帰れないんだと」
  悠に頼まれて伝えに来たと続ける声が、妙に小さい音に聞こえる。
  「……そう、なの」
  たったそれだけの言葉を言うのに、だいぶ時間を費やした。
  頭が真っ白になったように、何も考えられない。
  息苦しいのは、避けられているんじゃないかという、不安が増したから。
  耳鳴りのような変な音が頭の中で鳴り響いて、周りの音をかき消していく。

  一緒に帰れないんだと、という俺の言葉で、香月さんの笑顔が消えた。
  それはもう、潮が引くようにスッと。
  彼女の前の席にいる女の子が、心配そうに見つめている。
  残念ながら、俺の女の子リストにこの子の名前はなかったけれど。
  ちょっと黙ったあと、搾り出すような声で「そうなの」という言葉が返ってきた。
  俺の気のせいじゃなければ、声が震えている。
  「香月さんを避けてるんじゃないからね、悠は」
  気休めにしか聞こえないだろうなと思いながら、そう言ってみた。
  実際、悠は避けてなんかいない。
  聞こえているのかいないのか、無表情で彼女は窓の外に視線を移した。

  おい、悠。あれのどこをどうすれば、好かれてないって言えるんだ?
  どう見たって、香月さんは悠が好きだと思うんだけどね。俺は。
  だーからおまえはバカだって言うんだよ。
  自分の教室に戻りながら、中学からの悪友に毒づいた。
  まったくね、いろいろ気の回るやつだけど。自分の事に関しては、どっか抜けてるんだよな。
  3年のお姉様軍団に、半ば強制的に連れて行かれた悠を思い出す。
  ホント、今日のアイツはついてねーな。
  お姉様軍団と一緒にいるってことまで、香月さんに伝えなかった俺に感謝しろよ。

  「りん…大丈夫?」
  あたしの様子をうかがうように、由美の控え目な声が聞こえた。
  大丈夫と言おうとして、やっぱりやめた。昨日、そんなふうに嘘をついたら怒られたんだっけ。
  「……帰ろうか」
  結局、無難な言葉に切り替える。
  由美は何か言いたそうな顔をしていたけれど、黙ってうなずいた。
  「久しぶりに一緒に帰るんだし、どこか寄って行こうか」
  由美はあたしの顔を見て、困ったように笑う。
  「美味しいケーキ屋さんができたんだよ」
  そう言って、あたしの頭をぽんぽんと叩いた。
  「じゃあ、そこに行こう」

  「ねえ、由美」
  ケーキをつつきながら、正面に座る由美に声をかけた。
  「ん?」
  イチゴショートのイチゴを、パクッと口に入れながらあたしを見る。
  「今日、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
  「できる範囲ならね」
  にっこり笑って、またパクッとケーキを口に入れた。
  「簡単なことだから」
  「しかたないなぁ。由美様が手をかしてあげるわ」
  「あのね…」
  内緒話をするように、顔を寄せあった。

  ムリヤリ笑うのは、もうやめた。
  でも、後悔だけはしたくないから。
  今は、できることだけやろうと思うんだ。