16. それぞれの想い                               

  自分の中でタイムリミットを決めた。
  逃げないように。逃げ出せないように。
  心の中で、砂時計をひっくり返して。
  さらさらと落ちる砂を感じながら、いろいろ考えようと思った。
  ゆっくりと。
  静かに。
  流れる砂の音は聞こえないけれど、確かに刻まれる時間。

  だけど。
  ひっくり返したばかりの砂時計は。
  突然の衝撃で倒れて、動きを止めた。
  流れ落ちるはずだった砂は、横に倒されたガラスの中で息をひそめて。
  誰かが元通りに、立ちあがらせてくれるのを待っている。
  いつ、誰が、戻してくれるのかは、わからないままに。


  唯一、真っ白になった頭で考えていたことは、マンションにたどり着くことだけ。
  歩いているときのことなんて、ほとんど覚えていないけれど。
  必死にマンションへ戻ろうとしていたのだけは、しっかり覚えている。

  ドアを閉めて、鍵をかけて。
  その瞬間。張り詰めていたものが、一気にあふれ出した。
  ドアに背をあずけて、ズルズルとしゃがみこむ。
  溢れ出した涙は、視界の全てを歪ませた。すぐ目の前にあるはずの膝さえも、よく見えない。
  悲しいから涙が出るというよりは、勝手に溢れてくるという表現の方が正しい気がする。
  悠の言葉が、今も鮮明に蘇る。
  蘇る言葉に、また涙が溢れる。
  どうすればいいのか分からないほどに、今の自分は制御不能。
  縮こまるようにひざを抱えて、ひたすら泣き続けた。


  しばらく泣き続けて、やっと涙が止まった頃。
  泣き止むのを待っていたかのように、ポケットの携帯が震えだした。
  一定の間隔で、震え続けている。
  取り出した携帯のディスプレーには、由美の名前が表示されていた。
  悠からではないことに、ホッとしている自分と。
  悠からではないことに、どこかがっかりしている自分と。
  心の中で二つの感情がぶつかった。
  電話に出る気になれなくて、震え続ける携帯を眺めた。

  止まらない振動に、結局あきらめて携帯を開く。
  耳にあてた携帯にむかって、「もしもし」と呟いた。
  呟いたつもりだった。
  でも、まともに声が出ていない。ガラガラした変な音。
  『りん!?大丈夫?』
  由美があたしの声に驚いたことが、電話越しに伝わってくる。
  「……大丈夫だよ」
  ガラガラの声で、返事を返す。
  『嘘つかないの!!』
  大丈夫だと言った瞬間、由美に怒られた。
  うん。本当は、大丈夫なんかじゃないみたい。
  あれだけ泣いたのに、ふとした拍子に視界が歪む。
  「うん。大丈夫じゃない…」
  『…今ね、りんのマンションの前にいるの』
  トーンを落とした、優しい声で由美が言った。
  『入れてってわけじゃないから。ただ…』
  「うん」
  心配して、ここまで来てくれたんだって。ちゃんと分かるよ。
  由美に連絡したのが、誰なのかも。ちゃんと分かってるよ。
  本当に優しいから、あの人は。
  「来て、くれる?」

  ドアを開けたあたしを見て、由美が顔をしかめた。
  鏡なんか見なくても、自分がひどい顔をしてるのが分かる。
  そんなあたしに、由美は何かを言いかけて、結局何も言わずに抱きしめてくれた。
  「由美には、心配かけてばっかりだね」
  由美の肩に顔をうずめて、呟いた。
  「ごめんね」
  また、涙が出てくる。ポンポンと背中を叩く由美の手が、すごく温かい。
  「あたしね、本当はずっと…」
  「うん」
  「気付こうと…して、なかっただけで、ね」
  「うん」
  嗚咽をこらえながら、一つ一つ言葉をつむいだ。
  「ずっと…、悠が好きだったんだよ」

  いまさら気付いても。

  もう、遅い。
  
  
  
  

  俺が知る中で、上位にランクされるほどタチの悪いものといえば。
  不機嫌かつ不安定な悠。
  間違いなく、俺はこう答えるだろうよ。

  不機嫌なだけなら、まだマシで。
  これに不安定さがプラスされれば、相乗効果でますますタチが悪くなる。
  オーラがおかしい。
  もし色つきでオーラなんてものを見れるなら…。
  黒だな。絶対。
  っていうか、悠の周りだけ完全に空気が違うから。
  そばにいる俺も、必然的に重苦しい空気を吸う破目になるわけで。
  息苦しいんだよ、このバカ…。
  のどまで出かかった言葉を、水と一緒に飲み干した。

  でもな。コイツとは中学からの付き合いだけど。
  ここまでドス黒いオーラ出してるのを見るのは、初めてだわ。
  今まではもうちっとマシだったぞ?
  そして。この最悪のタイミングでコイツの家に来た自分が恨めしい。
  マジ、誰かコイツをどうにかしろって。

  「…早瀬」
  正面のソファに沈み込んでいた悠が、口を開いた。
  俺を部屋に上げてから、初めてしゃべったな。何か言っても、うなずくだけだったから。
  「なに」
  「ジントニ作って」
  「あぁ?」
  なんだ、いきなり。ってか、俺に酒を割って持って来いと。
  「おまえ酒飲まねんじゃねーの」
  前来たときは酒なんてなかったよな、ここに。
  「この間、叔父さんが持ってきたのがあるから」
  未成年だろ、なんて言う気はさらさらない。
  ない、が。
  「…おまえ、大丈夫か?」
  少し呆れ気味に聞いてみた。
  大丈夫かとは聞いても、どうしたのかなんて聞く気はない。
  「さぁ」
  返ってきたのは、乾いた笑いを含んだ一言。
  それを聞いて、まぁ大丈夫だろと思うのは、それなりに付き合いがあるから。
  ここで“大丈夫”とか言われたら、相当ヤバイって判断するね。俺は。
  はぁ、とあからさまにため息をついて立ち上がる。
  何で俺が…。

  キッチンで必要なものを揃えながら、悠を盗み見た。
  部屋全体が毒されてるんじゃないかと思うほど、空気が重い。
  俺の直感では、香月さんがらみだな。
  香月さんと付き合いだしてから、悠の中でいつも中心いたのは彼女で。
  はたから見ても、それがよく分かる。
  気付いてないのは、きっと香月さんくらいだろうなぁ。
  それ以外の理由なんて、俺にはサッパリ思い浮かばないね。
  「ほらよ」
  素直に酒を作ってやるあたり、俺ってホントいいヤツだ。
  「サンキュー…」
  「……自棄酒に付き合う気はねーぞ」
  渡したグラスの半分くらいを、一気に飲み干した悠を見て言った。
  返事が返ってこないところをみると、まだ飲む気か。
  「りんを…傷つけた」
  「あ?」
  なんだいきなり。
  「今日…別れた、から」
  「バカか、おまえ」
  呆れながら、そう吐き捨ててソファーから立ち上がる。
  香月さん中心で毎日過ごしてたくせに。バカ以外のなんだってんだ。
  またキッチンに行って、自分の分も酒を作った。
  バイクで来てるから飲む気なかったんだけど。
  俺も飲もう。んで、今日はここに泊り込んでやる。
  そりゃもう、俺様、友達思いだから。
  悠のバカさ加減をしっかり理解してやろうじゃないの。
  悪いけど、俺は常に女の子の味方って決めてるから。悠の味方なんてしてやる気はないけどな。

  悠が自分から話し出したから、話くらいは聞いてやる。