12. 会いたかった人                               

  兄さんと一緒に食堂へ戻ると、窓際に蝶子姉さんが立っていた。
  窓の外を眺めながら、携帯で話している。
  「いるじゃん、蝶子のヤツ」
  小さな声で、兄さんがあたしに呟いた。
  「さっきはいなかったもん…」
  入れ違いになったのかな。
  小声でそう言葉を返すと、兄さんはニヤッと笑ってさっさと席に着いた。
  とりあえず、兄さんの正面にあたしも座る。
  「えぇ……今日も休ませますので…」
  窓際にいる蝶子姉さんを見ると、そんな言葉が聞こえてきた。
  「ちょっと、姉さん!?」
  休ませるって、あたしのこと!?
  抗議の声を上げると、振り返ってにっこりと笑顔を返される。
  「…よろしくお伝えください」
  そう言って、電話を切った。
  何がよろしくなのよ!!
  ガタッと音を立てて立ち上がる。
  「今日は学校に行くんだから。それに、携帯も返してよ」
  そんなあたしを、姉さんは困ったような笑顔で見て、兄さんの隣りに座った。
  「…そんなに連絡を取りたい人がいるの?」
  そう言われて、真っ先に頭に浮かんだのは悠だった。
  「うん」
  姉の目を見て、はっきりとうなずく。
  心配させたくない人がいるの。連絡を取りたい人がいるんだよ。
  声が聞きたい。顔が見たい。
  「ねぇ、りん」
  相変わらず困った笑顔だけど、目は真剣だった。
  「ちょっと、話があるのよね…」
  組んだ手にあごを乗せて、静かに切り出した。

  姉さんの目に少し気圧されて、とりあえず座り直す。
  学校にはもう連絡されてしまっているから、あきらめるしかない。
  でも、携帯は絶対に返してもらわないと。
  「……携帯返してくれるなら聞く」
  わがままは末っ子の特権ってことで、許してもらおう。
  姉はクスッと笑って、テーブルにあたしの携帯を置いた。
  「これでいい?」
  黙って、首を縦に振る。
  チラッと見た兄は、椅子に浅く腰掛けて椅子に沈み込むような体勢であたしを見ている。
  あたしと目が合うと、こっちも困ったように笑う。
  視線を姉に戻すと、少し間を置いてから、口を開いた。
  「……りんに、この家に戻ってきてほしいのよ」
  そして一言、そう言った。


  あたしが一人暮らしをし始めたのは高1の終わり頃。
  もともとこの家から通っていたんだけれど。
  あたしが、逃げ出した。この家から。

  父親はいつも外国にいて、小さい頃から滅多に会うことがなかった。
  遊んでもらった記憶なんて、ないと言っていいかもしれない。
  兄と姉は10歳も年が離れているし、学校もあったし。
  だからあたしは、この家の庭で一人で遊んでいた記憶しかない。
  その父が、突然見合い話を持って帰国した。
  父の経営する会社と、見合いの相手先の会社との関係を深くするため、とかいう理由で。
  古臭い言い方をすれば、政略結婚?馬鹿馬鹿しい。
  もともと、父親が好きじゃなかったのもあったから。あたしは即、それを拒否した。
  その時に、とっさに口をついて出た嘘が「好きな人がいるの」だった。
  言ってしまった瞬間も、今も、我ながらなんてちゃちな嘘だろうと思うんだけど…。
  それでも兄と姉が味方をしてくれたおかげで、見合いは無しになった。
  ただ、姉は味方になってはくれたけど、見合いは反対じゃなかったみたいで。
  あたしに「好きな人がいる」から、味方をしてくれただけ。
  で、このまま家にいると嘘がばれちゃうし。
  わがままだって分かってたけど、一人暮らしを許可してもらったんだよね。
  全部、あたしのわがまま。父親と姉に嘘がばれないための、ただのわがまま。
  でも、姉さんはまだ見合いのことをあきらめたわけじゃないみたい。
  その証拠に、昨日呼んでいたんだから。
  父が持ってきた見合いの相手は、亜聡くんだった…。

  話を聞き終わったあと自分の部屋に戻って、窓際へと近寄った。
  どうしたらいいか、分からない…。
  ゆっくりと息を吐きながら、もう一度姉の話を整理しようかと考えた。
  そのとき、何気なく見た部屋のすぐ下の道路に、バイクが止まっていて。
  ヘルメットを取ったその人の顔を見て、あたしは部屋を飛び出した。



  薄茶色の塀を見上げて、ヘルメットを取った。
  「ここ…か?」
  塀の向こうには、ずいぶんとデカイ屋敷が建っている。
  家の周りをざっと見てきたけれど…。
  「デカイって…」
  感想はと聞かれれば、これしか出てこない。
  りんって、実はお嬢様だったり…?
  「はは…」
  普段のりんを思い出して、笑いがこぼれた。
  俺の知ってるりんは、からかうとすぐすねるし。
  手を繋ぐと、ちょっと周りを見回して、照れたような笑みを見せてくれる。
  料理だって美味い。
  まだ知らないことだって多いけど、これから知ればいいんだし。
  まぁ、とりあえず。りんがどんな家にいようと、俺には関係ないから。
  もう一度、塀の向こう側の建物を見た。
  「ここにいるのかな、りんは」
  学校を出て真っ先に向かったのが、りんが住んでいるマンション。
  予想通り、インターフォンは無言だった。仕方ないから、次はりんの実家に目的地を変えた。
  津ノ田から教えてもらった住所を頼りに、ここを探し出したんだけど。
  ここらへんの土地勘がないから、かなり手間取った。まさか、こんな家だとは思わなかったし…。
  バイクから降りて、ヘルメットを置いた。
  さて、と。どうしようか。素直に玄関から、おじゃまします、って言えば会えるか…?
  「……無理そうだよな」
  りんが出てくるなんてことは…。

  「はるかッ!!」

  反射的に声のした方を見た。
  視界に飛び込んだのは、俺の方へ走ってくるりんの姿で。
  その表情は今にも泣きそうに歪んでいる。それを見て、俺もりんに駆け寄った。
  「ぅわッ」
  目の前で止まるのかと思ったら、そのままりんに抱きつかれてバランスを崩す。
  かろうじて体勢を立て直して、制服に顔をうずめているりんを見下ろした。
  こんな風に抱きつかれるのは初めてで、ちょっと戸惑ってしまうんだけど。
  それに…手のやり場に困るんだよなぁ。
  「…りん?」
  一つ息を吐いて、そっとりんに声をかけた。
  心配したんだ、とか。
  大丈夫か、とか。
  何で連絡が取れなかったのか、とか。
  りんに会えたら、いろいろ言いたいことがあったはずなんだけど。
  実際に会ってみると、そんなことどうでもよくなった。
  昨日1日会えなかっただけのに。やっと会えたって、すごくホッとしてる自分がいる。

  ふとりんの肩を見ると、小刻みに震えていた。
  泣いてる?
  「りん」
  もう一度名前を呼ぶと、ゆっくりと顔を上げた。
  思ったとおり、目に涙がたまっている。りんは手の甲でその涙をふいたあと、俺を見た。
  「…どうかした?」
  なんて言えばいいのか分からなくて、そんな言葉しか言えない自分が歯がゆい。
  りんは何も言わずに、首を横に振る。元気がないみたいで、何かあったんじゃないかと思うんだけど。
  そんなことを聞くより先に…。
  少し身をかがめて、視線の高さをりんに合わせる。
  「…じゃあ、泣くほど俺に会いたかったんだ」
  にっこり笑って、そう言ってみた。
  りんは少しの間ポカンとしていたけれど。
  「ち、違うわよ!!」
  すぐに顔を赤くして、声を上げた。
  「そんなに力いっぱい否定しないでよ」
  酷いなぁ、というように苦笑する。
  少しでも落ち着いてもらいたくて、いつもどおりの態度でりんに話しかけた。
  俺はここにいるから。だから、笑って。
  りんの笑顔が見たい。
  「…俺はね、りんに会いたかったよ」
  視線の高さを合わせたままで、からかうように笑った。
  いつもなら真っ赤な顔で突っかかってくるりんなのに…。
  「あたしだって、会いたかったもん」
  そう言って、笑った。