07. マンションの前で                              

  やっと解放されて、悠に背を向ける格好でソファーに座り直した。
  「りん、ごめん。俺、りんの料理が食べたいです」
  「……」
  「りん?おーい…」
  チラッと悠の顔を見て、バックから携帯を取り出した。
  目的の番号を表示させて、通話ボタンを押して耳にあてる。
  首をかしげてこっちを見る悠に、にっこりと笑ってやった。
  呼び出し音は鳴っているけど、相手は出ない。
  もう、電車に乗っちゃったかなぁ…。
  切ろうかと思ったとき、呼び出し音が途切れた。
  『もしもし!?』
  ちょっとあわてたような、元気な声。
  「あ、知架ちゃん?もう電車に乗るところだった?」
  “知架”と聞いて、悠はますます不思議そうな顔になる。
  『まだですよ。今ホームに着いたとこです』
  「よかった。あのね、日曜日予定入ってる?」
  『あさっての日曜ですよね。えっと…』
  河神くんの声も、少し聞こえてくる。
  『あいてます!』
  「本当?じゃあ、水族館に行かない?河神くんも一緒に」
  悠の方を見ながらそう言うと、「うわ…」と呟くのが聞こえた。
  『この間オープンした所ですよね?行きたいです!!ね、志月!』
  知架ちゃんの元気な声が、悠にも聞こえているんだろう。
  嬉しそうな知架とは対照的に、悠は不満げな表情になった。
  「じゃ、あさってね」
  そんな悠をよそに、あとでメールするからと言って、電話を切った。
  「……いつの間に知架と番号交換したんだよ」
  ソファーに沈み込んで、恨めしそうにあたしを見上げてくる。
  「悠が見てないときに、ね」
  「なんで妹と一緒に行かなきゃなんないんだ…」
  「いいじゃない、かわいい妹でしょ?」
  「……妹より、りんと2人がいい」
  “2人がいい”なんて、サラリといわれるとドキッとしてしまう。
  さっき抱きしめられたのも手伝って、また心臓がバクバクし始める。
  「は、悠が変なことするから悪いんでしょ!?」
  顔が赤くなっているのを見られたくなくて、サッと立ち上がって背を向けた。
  ローテーブルに出しっぱなしのコップを持って、キッチンに行く。
  「冷蔵庫、開けていい?」
  「どうぞ。何作るの?」
  きっと、あたしの顔が赤いことなんてお見通しなんだろう。
  楽しそうに笑いながらそう言って、悠もキッチンに入ってくる。
  「材料見てから決めるわ」
  「昨日買い物行ったから、食材はそろってると思うけどね」
  本当だ、いろいろ入ってる。
  あたしの後ろから、悠も冷蔵庫を覗き込んだ。
  「悠ってちゃんとご飯作ってるのね」
  後ろの悠をチラッと見ると、予想外に顔が近くにあってビックリした。
  また心臓が暴れだしそう。
  「当然」
  「じゃあ、悠が作ってよね!」
  冷蔵庫を閉めて、体ごと振り返る。
  「やだね。俺はりんの料理が食べたいの」
  ちゃんと手伝うからと、ポケットに手を突っ込んでにっこり笑った。


  「ここまででいいよ。駅から近いもん、家」
  あたしの家の最寄り駅まで来ると、隣に立つ悠を見上げて言った。
  本当は、悠の家の最寄り駅までで十分だったんだけど。
  「ダメ。今、何時だと思ってんだよ。女の子の一人歩きは危ないの」
  このセリフを聞くのは、2回目。電車に乗る前にも、同じことを言われた。
  一緒に夕飯を作って、テレビを見ながらゆっくり食べた。
  おかげで、帰るのがだいぶ遅くなってしまったんだけど。
  「でも…悠が帰るの、遅くなっちゃうのに」
  「いいから」
  そう言って、あたしの手を握ってさっさと歩き出す。
  「家、こっちでいいの?」
  「うん」
  しばらく黙って歩いた。
  いつものように、あたしの歩くスピードに合わせてくれる悠。
  ちゃんとあたしのこと考えてくれてるんだなって、嬉しくなる。
  だから、なんで悠はあたしを選んだんだろうと不思議になるんだけれど。
  悠なら他にいくらでも、女の子が寄ってくるはずなのに…。
  それでも、あたしを選んでくれたことが、やっぱり嬉しくて。
  あたしの手を握る悠の手を、ほんの少し握り返した。

  「ここ、左」
  十字路で、まっすぐ歩いていこうとする悠の手を引く。
  「…あそこ?」
  角を曲がってすぐに見えたマンションを、悠が指差した。
  「うん」
  「けっこう歩いた気がするんだけど」
  そう言って、携帯を開いて時間を確認した。
  「あれ。でも7分くらいなんだ、駅から」
  「夜だから遠く感じたんじゃない?」
  入口のところで立ち止まって、悠を見上げる。
  「送ってくれてありがとう」
  「いえいえ。どういたしまして」
  マンションからの光で、悠が笑ったのが見えた。でも、なんだかいつもの笑顔と違う気がする。
  手もつないだまま。
  「悠…どうしたの?」
  少し目を細めて、あたしを見ている。悲しそうな、って表現してもいいかもしれない。
  どうして、そんな顔してるの。今まで、普通にしゃべってたのに。
  「ねえ、悠…」
  違う。
  今までずっと暗い所にいたから、気付かなかっただけかもしれない。
  悠の顔が見えなかったから。
  「りん…」
  黙ってあたしを見たあと、静かに名前を呼んだ。いつもより少し低い、真剣な声で。
  「結局、帰るまで何も言わなかったな」
  「え?」
  何のことを言ってるの?
  悠に言わなきゃいけないことなんて、何も…。
  「…今日、靴箱の所でたたかれただろ」
  あたしの頭に思い浮かんだのと同時に、そう言った。
  「……」
  悠が、あたしの頬に手を添えた。
  3年の先輩に打たれた左頬を、そっと親指でなでている。
  「やっぱり……気づいてたんだ?」
  悠の手を感じながら、苦笑する。
  「けっこう近くにいたからね、俺」
  実際に見てたわけじゃないんだけどと、悲しそうに笑った。
  「それに、りんが昨日誰に呼び出されたか、聞いてきたから」
  そう聞いたら、分かっちゃうよね。
  「ごめん。痛かったよな」
  眉間に軽くしわを寄せて、悔しそうな顔をする。
  「なんで悠が謝るのよ」
  やめて。
  そんな顔しないで。
  「悠が悪いわけじゃないでしょう?」
  そんな顔、見たくない。
  「大丈夫だよ」
  安心させるように、笑ってみせた。
  「大丈夫だから…」
  つないだままの悠の手を、ぎゅっと握る。
  だから…、そんな顔しないで。
  「…もし、またこんなことがあったら、ちゃんと俺に言って」
  左頬に添えられた手が、一瞬、震えた。
  「頼むから…黙ってないで、俺に言って」
  「……うん」
  悠の目を見て、うなずいた。
  でも、実際に悠に言えるかなんて分からない。
  言えば、今みたいな表情をさせてしまうだろう。
  悠のこんな表情は初めて見たけど、二度とさせたくない。
  悔しそうで、悲しそうで。
  「もう、こんなことさせないから。りんが傷つくのは、絶対に嫌だ」
  「…うん」
  「俺が原因なら、なおさら…」
  7月の夜だというのに。悠の手はひんやりとしていた。
  左頬の悠の手に、そっと手を添える。温めるように。
  できるだけ明るい笑顔を作って、悠を見上げた。
  「これくらい、なんてことないわよ」
  少しの間あたしを見つめて、悠はいつもの笑顔を浮かべた。
  ちょっと、無理をしているような感じだったけど。
  その笑顔を見てホッとした時、いきなり悠に引き寄せられた。
  気付くと、すぐそこに悠の顔があって。


  あたしは初めて、悠とキスをした。