05. 何も、知らない                                

  「今日さ、妹が彼氏を連れてくるんだって、家に」
  少しして、悠が楽しそうに笑った。
  「で。妹いわく“お兄ちゃんの彼女も連れてきて”だそうで」
  「…あたしが用事あったらどうする気だったのよ」
  「まぁ、その時は妹にあきらめてもらうしかないね」
  特に気にした風もない。
  「……あたし、“彼女”じゃないでしょ…」
  外に視線をやったまま、ぼそりと呟いた。
  「彼女だよ。少なくとも、俺にとってはね」
  ゆっくりと視線を悠に移す。
  悠の目を見ても、本気で言っているのか、冗談なのか、分からなかった。
  あたしは黙った。悠の顔を見つめたまま。
  ねえ、悠。あたしたちは偽りの恋人のはずよね。そういう、関係だったはずでしょう。
  心の中で、問いかけた。
  当然、聞こえるはずのない問いに、悠の返事はない。
  視線はそのままに、電車に乗る前からつないでいる手に意識を向けた。
  つないでいる、というのは間違いかもしれない。あたしは手に、いっさい力を入れていないから。
  “悠が”あたしの手を“握っている”という表現の方が正しいかな。
  手を握り返さないあたしを、悠はどう思っているのだろう。
  「りん?俺の顔に何かついてる?」
  「……なんでもない」
  「そうか?…次で降りるよ」
  あたしはまた、外に視線を戻した。

  「ここに住んでるの?」
  あたしは目の前のマンションを見上げて、ぽかんとした。
  だって。高級マンションってわけじゃないけど、それなりに高そうな外観。
  「首痛くなるよ」
  最上階の方を見上げているあたしに、悠が苦笑した。
  「りん、とりあえず中に入ろう」
  あたしの手を引いて、オートロックをあける。エントランスを通過して、エレベーターのボタンを押した。
  「ねえ。実は悠の家ってお金持ち?」
  「そんなことないよ」
  あたしの子供じみた質問に、悠が笑う。
  エレベーターを降りて、廊下の一番はじが悠の部屋だった。
  もちろん、ドアの横のプレートには「大野」と書いてある。
  中に招き入れられて、あたしは違和感を感じた。
  悠は自分の家って言ってたけど…。
  「悠、もしかして…一人暮らし?」
  すぐそばに立つ悠を見上げる。
  「うん」
  「知らなかった…」
  あたしは驚いて、部屋を見回した。
  「そんなに珍しい?」
  「んー…だって広いし。予想よりキレイだし!」
  一人暮らしには広すぎでしょ。部屋が2つ?リビングだってちゃんとあるし。
  「なんだよ、その“予想より”って」
  だって。あんまり男の子の部屋に入る機会ってないんだもん。
  「とりあえず、ソファーにでも座ってて。飲み物持ってくる」
  そう言って、悠はつないでいた手をほんの一瞬ぎゅっと握り、そっと離した。
  悠のぬくもりがなくなったからか、手が寒く感じる。
  「麦茶でいい?」
  「うん。ありがとう」
  つないでいたほうの手をそっと握り締めた。

  窓に近づくと、なかなか景色もいい。
  かなりいい所に住んでるんじゃない、悠ってば。本当、ビックリしちゃった。
  ピッという音がして、エアコンが動き出した。
  その音に振り返ると、あたしを見ている悠と目が合った。
  「景色いいだろ?夜も夜景が綺麗だったりするんだよ」
  「すごいね。悠ってばオボッチャマ?」
  くすくすと笑いながら、ソファーに腰掛ける。
  「さぁね。秘密ってことにしておいて」
  一緒に笑う悠から、とぼけた返事が返ってきた。
  ローテーブルに麦茶を置いて、悠が隣りに座る。
  「妹さんはいつ来るの?」
  「さぁ。そろそろじゃないかな、たぶん」
  悠が言い終わる前に、壁のインターフォンが来客を告げた。
  
  「もうすぐ来るよ」
  カチャ、と受話器を置きながら振り返った。
  インターホンの画面では、顔がよく見えなかったけど。
  たぶん話していたのが妹さんで、その後ろに立っていたのが彼氏くんかな。
  「よく来るの?」
  「妹?…たまに、かな。ココの近くまで来た時くらいだよ」
  隣りに戻ってきた悠をちらりと横目で見て、麦茶を飲んだ。
  悠に妹がいるなんて知らなかった。一人暮らしだってことも、さっき知ったばっかり。
  何も悠のこと知らないんだな…、あたし。
  何も知らないって、ちょっと寂しいかもしれない。
  「りん、どうかした?なに麦茶とにらめっこしてんだよ」
  「…してないもん」
  悠に笑われて、むくれてみせる。
  「何考えてたのさ」
  「別に…」
  持っていたコップをテーブルに戻すと、悠があたしの顔を覗き込んだ。
  心の中まで見透かされているような気になるのは、どうしてだろう。
  「…そんな顔しないでよ」
  どんな顔?あたしは今、どんな表情をしているんだろう。
  「そんな…顔って?」
  「泣きそう」
  「嘘だぁ」
  デコピンをしてやろうと手を伸ばすと、その手は悠の手に包まれた。
  「泣きそう、って言うのは嘘だけどね」
  「もう」
  悠につられて、あたしも笑う。
  悠の笑顔は、あたしを元気にしてくれる。
  この笑顔は、あたしを少しだけ素直にしてくれるのかもしれない。
  「あのね。あたしは悠のこと、何にも知らないんだなぁって…」
  苦笑しながらそう言うと、悠は驚いた顔になる。
  「どうしたの、いきなり」
  「だって。悠が一人暮らしなのも、妹がいることも、全然知らなかったんだもん」
  他にも、知らないことだらけ。
  あたしは…4ヶ月間、悠の何を見てきたんだろう。
  「それなら…」
  驚いた表情から、すぐに笑顔に戻る。
  「これから知ればいいじゃん」
  コツンと、あたしは悠の手の甲で額を小突かれた。
  部屋にチャイムが響いて、悠が不満そうに立ち上がる。
  「あーあ。もう来たよ。せっかく、りんが可愛いこと言ってくれてたのに…」
  インターホンで、今開けるから、と返事をして玄関に歩いて行った。
  これから知れば、か。まだ、一緒にいられるってことだよね。
  そう考えると、嬉しくて自然に笑みがこぼれた。

  悠の後ろから、小柄な女の子と悠位の身長の男の子が歩いてきた。
  女の子の顔に浮かんでいる笑顔は、悠とそっくりだ。
  あたしの感想としては、かわいい、と思う。
  大野家は美男美女がそろってるのね、きっと。
  なんて。内心考えながら、ソファーから立ち上がる。
  「初めまして」
  あたしを見ている2人に、にっこりと笑う。
  「香月 りんです」
  なぜか2人は、何も言わずにあたしを見ている。
  あたし、何かした?変なことしてないよね…。
  困って悠を見ると、苦笑しながら2人を小突いた。
  「おまえら、何か言うことないのか?」
  小突かれて、やっと2人が我に返る。
  「あ、あの…大野 知架です」
  女の子がペコッと頭を下げた。
  「河神 志月です」
  かわいい子にはカッコイイ彼氏がつきものなのかしらー…。
  ちょっとおばさんくさい(?)ことを考えていると、あたしの隣りに悠が来た。そして、肩に腕を回される。
  「で。感想は?」
  妙に嬉しそうな顔で、知架ちゃんたちに尋ねる。
  「悠、感想って何よ…」
  いぶかしむあたしをよそに、知架ちゃんが口を開いた。
  「キレイ」
  ね?と同意を求めるように、河神くんを見上げる。
  河神くんもそこで頷いちゃってるし。
  なんか…すごく恥ずかしいんだけど…。
  悠が肩に回していた手を離して、あたしをソファーに座らせた。
  2人にも座るように言って、キッチンに歩いて行った。