18.
                                        

かすれた声で名前を呼んだあと、戒はうつむいた。
「どうしたの、そんなに息きらせて」
膝に手を付いて、肩で息をしている。
「何かあったの?」
そう聞いてみても、下を向いたまま、返事もなかった。
「急ぐ用なら携帯に…」
携帯に連絡してくれれば、と言おうとして言葉を切った。そういえば、戒はあたしの携帯番号もアドレスも知らないんだった。
「連絡のしようがなかったよね。ごめん、教えてなかったから…」
「違う」
かすれた声で否定しながら、戒が顔を上げた。
「何もない。用があったわけじゃない」
ポケットから携帯を取り出そうとした手を止めて、戒の顔を見た。
用があったわけじゃないなら、どうして追いかけてきたの。
そんなに息が切れるくらい走ってきたのに、何もないなんて。
家ではあたしと目を合わそうとしなかったじゃない。
「…意味わかんない」
小さくため息をついて、また歩き出す。
戒も歩き出したのが足音で分かった。

「景」
十数歩くらい歩いたところで、また名前を呼ばれた。
「…何?」
足を止めて、振り返る。戒は足下に視線を向けて立ち止まっていた。
「この間、回覧板が回ってきてた」
「…回覧板?」
唐突にそんな事を言われて、少し戸惑った。
「景がこっちに帰ってきた日の2、3日前」
戒は視線をそらしたまま歩き出して、今度はあたしが後ろを歩く形になった。
「家の近くで痴漢が出たんだってさ。親父がお母さんに気をつけるようにって言ってた」
あたしも気をつけろと言いたいのだろうか。
それを言うためだけに、わざわざ走って追いかけてきたなんてことないよね。
「…なぁ」
数歩先を行く戒が振り返った。
「景が心配で追いかけてきたって言ったら、どう思う?」
突然の問いかけに驚いて、咄嗟に言葉が出てこなかった。
「今も、景がこっちに帰ってきた日も、心配だったからって言ったら…」
戒は、黙ったままのあたしから視線をそらさない。気のせいか、その表情は少し寂しそうに見える。
「景は…どう思う?」
もし、今あたしから目をそらしたら…。
戒の問いかけへの返事よりも、別のことが頭に浮かぶ。
自分が先に目をそらせば、きっとそれは拒絶として受け取られてしまう、と。そう思った瞬間、すぅっと冷たい感覚が背中を走り抜けた。
どうしてそんなふうに感じるのか分からない。でも“拒絶”と受け取られるだろうということが、どうしようもなく嫌だった。

「迷惑だったら、そう言って」
何も言えないでいると、戒は付け加えるように小さく続けた。
違う、と返そうとして開いた口を、結局、何も言わずに閉じた。
どんな返事をしても、その場しのぎの薄っぺらな言葉だと取られてしまいそうな気がする。
何も言わなくたって悪い方にしか進まないのは分かっているけれど…。
「家族っていったって血は繋がってないし」
黙ったままのあたしに、それでも戒は目をそらさない。ただ、ぽつりぽつりと言葉を続けていた。
「初めて会ってから、まだ1年もたってないもんな」
自嘲と寂しさが混ざり合ったような声音が、耳に突き刺さる。
「そんなヤツにいちいち構われたくない、とか…」
なんて言えばいいのか、分からない。
どうすれば傷つけなくてすむんだろう、と考えて、もうとっくに傷つけてしまっているんだと思い直した。
「なんか言えよ」
それまでずっと目をそらさなかった戒が、うつむいて顔をそらした。
「おまえ何も言わないから…、何考えてんのか分かんないんだよ」
「戒…」
名前を呼んだ。呼んだけれど、とても小さな声にしかならなくて、それ以上の言葉は出てこない。
「嫌いなら嫌いだって言えよ!」

「嫌いじゃないって言ったでしょ?!」
無意識…だったと思う。
あたしは声を荒げて、ついでに戒の頬を思い切り引っ叩いていた。
「あ…ごめん……ごめんなさい」
頭が真っ白になって、それでも、なんとか謝罪の言葉だけは口にする事ができた。
今までの自分の態度が悪かったから戒があんなこと言ったのに、あたしが怒るなんて筋違いだ。引っ叩くなんて、余計にタチが悪い。
赤くなり始めた頬に触れようとした手を、触れる寸前で止めた。
あたしなんかに触られたくないかもしれない。
そう思って手を離そうとしたとき、少し痛いくらいの力で手首をつかまれた。
ビクッしながら逸らした視線を戻すと、不機嫌な顔で、頬にあたしの手を押し付ける戒と目が合った。
「ごめん。痛かったよね…」
痺れて痛み出した手のひらに、戒の頬の熱が伝わってくる。
「痛い」
ぶっきらぼうに言って、でも熱を持ち始めたあたしの手を頬に押し付けたまま離さない。
「痛い……けど、嫌われるよりはマシ」
痛いと言われてうつむいていたあたしは、パッと戒の顔を見た。戒は目を合わせないためか、顔を背けたけれど。
「何それとか、どうでもいいとか、関係ないとか、意味わかんないとか…そういうこと言われるよりは、ずっとマシ」
頬から離された手は、今度は戒の手に握られる。熱を持ったあたしの手とは対照的に、その手はひやりとして冷たかった。

「ごめんなさい」
手を引かれて歩きながら、もう一度謝った。やっぱり、あたしは最低だと思う。
「…景、ちょっと耳貸して」
「え?」
振り向いた戒が顔を近づけてくる。
なんだろうと思ったとき、頬に柔らかいものが触れた。
反射的に頬のその部分に手を当てる。
「これで、あいこ」
表現するならニヤッという言葉がピッタリの笑顔が、あたしに向けられた。




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