鳥かご

  小さい頃から、あたしは体が弱かった。
  記憶の大半は、白い壁に囲まれた小さな部屋の白いベッドから眺める、毎日変わらない景色。
  窓で区切られた、狭い世界だけ。
  友達は病院で知り合った子がほとんどで。
  でも、その子たちはすぐに退院して行った。
  
  しかたがないんだって、わかってる。
  あたしを生んでくれたお母さんも、あたし自身も、誰も悪くなんてない。
  ただちょっと、運が悪かっただけ。
  ただ、それだけのこと…。
  
  
  
  「いい天気ー」
  屋上に出ると、墨来た青い空が目に飛び込んできた。
  風も強くない。今日の天気は、文句なしの二重丸。
  これで、ここが病院の屋上じゃなければ最高なのに…。
  「外…行きたいな」
  近くの小学校の校庭が見える。休み時間なのか、遊んでいる子がたくさんいる。
  サッカー。ドッジボール。鉄棒。滑り台。登り棒。
  どの遊具にも子供が群がっていた。遠目でも、楽しそうなのがよく分かる。
  「外行きたいな…」
  もう一度、ポツリと呟いた。
  病院の外へ。あたしがほとんど見たことのない、世界へ。
  自分の好きな服を着て。いろんなお店を見て回って。遊園地や水族館にも行きたい。
  学校にだって…、ちゃんと通ってみたい。
  校庭から目を離して、手すりを握る自分の手を見た。
  自分で言うのもなんだけど、白い手だなぁ。
  白いって言うより…青白い?うわー…。
  どっからどう見ても、病弱そうにしか見えないわ。
  「あーあ…」
  組んだ腕を手すりの上に置いて、腕の上にあごを置く。
  ずっと遠くに、かすかに海が見えた。
  もう、ここから見える景色なんて見飽きたのに。
  四方八方、全ての方向を何度も見て。飽きてしまうほど見続けて。
  それでも…まだ、あたしはこの病院という名の鳥かごから、出ることを許されない。
  もし、この手すりを乗り越えて、鳥のように空中に舞ったなら…。
  あたしは……自由を手に入れることが、できるだろうか。
  もし…。
  
  「何?自殺願望でもあるわけ?」
  背後から、突然声が聞こえた。
  のんびりしたような、どこかどうでもよさそうな、そんな響きを持つ声。
  あたしは反射的に振り返った。
  でも、視線の先には誰もいない。確かに声が聞こえたのに。
  「どこ見てんのさ」
  声の主は、今まであたしが見ていた方向に向かって、左側にいた。
  あたしは右回りに振り返ったから、左に移動していた彼に気付かなかっただけ。
  その人は、さっきまでのあたしと同じ体勢で遠くを眺めている。
  「……誰」
  多少、口調にトゲがあるのは仕方ないと思ってもらおう。
  初対面の相手に、自殺とか言うヤツに礼儀も何もない。
  「ただの見舞い人」
  相変わらずのんびりした口調で、あたしの方を見ずに答える。
  何してるんだろう、この人。お見舞いに来た人が、屋上に来る?
  「で。本当に自殺希望者?」
  話題を戻した彼が、今度はあたしを見る。
  「何でそう思うわけ」
  「オーラがそれっぽい」
  なんだそりゃ。あたし、そんなオーラ出してないし。
  そもそも、どうでもよさそうな声でオーラとか言ってんじゃないわよ。
  「何それ」
  変なこと言わないでよね。
  「とりあえず。俺がここにいる間はやめてよね」
  興味などなさそうに、そう続けた。
  「自殺すんの黙ってみてたら、犯罪になっちゃうらしいし?」
  「あたしは自殺なんかしませんッ!!」
  まぁ、ちょっと危ないところまで考えてたけど。
  でもね、実行に移せるような度胸はないのよ、あたしには。
  それより。自分に害がなければ自殺してもいいって言いたいの?コイツ。
  「あー、そう。それならいいよ」
  のんびりとそう言って、あたしから遠くへと視線を投げた。
  
  あたしがここにいることを忘れてしまったかのように、遠くを見続ける横顔。
  よく見れば、まあまあ整った顔に見えなくもない。
  目は、何に対しても興味を持たないような、醒めた色をしているけれど。
  ……変な人。
  彼の横顔から目を離して、歩き出す。
  部屋に戻ろう。この人と並んで景色眺めて立って、面白くない。
  カチャ…
  階段へつながるドアに手をかけたとき、ふいに声が聞こえた。
  
  
   空を舞う鳥を見て
   自分にも翼があればと 思わずにはいられない
  
  
  振り返ると、同じ体勢で遠くを眺める後姿がある。
  けれど、声は彼のものに違いない。
  
  
   仰いだ空は どこまでも青く
   見下ろす大地は どこまでも温かい
   鳥には空を 私には大地を
   不可能を望むのはやめて ただ前に進む努力をしよう
   大地から足を離すことなど できないのだから
   それなら 一歩でも前へ
   その一歩先には きっと
   新しい光が 灯っているはずだから
  
  
  詩、だろうか。
  聞いていてなんだか寂しくなるのは、彼の声音のせいかもしれない。
  遠くを見つめたまま、呟くようにつむがれる言葉。
  開きかけたドアを閉めて、ドアにもたれかかった。
  ここからだと、彼の背中しか見えない。
  
  しばらく待っても、それ以上彼は何も言わなかった。
  ちょっと迷って、さっきまで自分がいた場所に戻る。遠くを見つめ続ける彼の、右側。
  並んで立っているのは、なんだから居心地が悪くて。その場にしゃがみこんだ。
  落下防止の手すり越しに見る景色は、本当に鳥かごに入れられているような錯覚を起こす。
  カゴに入れられた鳥は、どんな気持ちで外を見ているのだろう…。
  外に出たくても、出してもらえない。
  自由に翼を広げて、心地良い風を受けることもない。
  今のあたしと、同じような感情を抱いているのだろうか。
  鳥に感情があれば、の話だけれど。
  
  「部屋に戻ったんじゃなかったんだ?」
  あたしが彼の隣に戻ってから、数分たった頃。
  思い出したように、のんびりした声が降ってきた。
  「戻ろうと思ったんだけど。誰かさんが何か言ったから、やめた」
  チラッと彼を見て、また視線を遠くに投げる。
  「あぁ、そう」
  「…もう一回聞かせてよ。さっきは、よく聞こえなかったから」
  聞こえなかったなんて、嘘。
  もう一度聞きたかっただけ。
  「ダメ」
  たっぷり間を置いて、短い返事が返ってきた。
  「なんでよ」
  「減るでしょ」
  クスッと、かすかに笑う声が聞こえて、顔を上げた。
  視線が合った彼の目は、さっきまでと違って、少し楽しそうだ。
  「…ケチ」
  すねるように少し目を細めると、仕方ないなぁというように、彼は肩をすくめた。
  
  彼の口からつむがれる言葉たちは、さっきとは違って、温かくあたしの中に染み込んだ。
  彼か、それとも別の誰かか。この視を作った人は知らないけれど。
  小さな何かが、あたしの中に生まれた気がした。
  
  
  「部屋に戻らないの?」
  「そっちこそ。帰らないの?」
  いつの間にか、空は青から茜に色を変え始めていた。
  いい加減、部屋に戻らないといけないのは分かってる。
  でも、戻りたくないと思っている自分に、少し驚いた。
  「看護師さんに怒られても知らないからなー」
  相変わらずのんびりと、彼は言う。
  「わかってるよ」
  ゆっくりと立ち上がって、彼と並ぶ。
  「……じゃあね」
  本当は、まだ戻りたくないけれど。遠くを見つめながら、呟いた。
  ふぅ、と息をついてドアへと向かう。
  ドアを開けて一歩建物の中に入ったあたしに、彼が声をかけてきた。
  たった一言。
  「またね」
  振り返って、こっちを見ている彼に、あたしは笑顔を返した。
  ドアノブから手を離すと、キィと耳障りな音を立ててドアが閉まる。
  そのドアを数秒見つめて、ゆっくりと階段を下りた。
  
  「また、ね」
  
  
  いつ会えるかなんて、そんなの分からないけれど。
  もし、次があるのなら。
  名前を聞いて、それから…。
  また、あの詩を聞かせてもらおう。
  
  
  
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